とあるボストンの夕暮れ。
ラジオから流れるクラッシック音楽に誘われ、いつの間にか眠りに落ちていた。
一月末という時節柄、朝から雪が降り積もっており、外を行き来する車も少なく静かだ。
とはいえボストンの高級住宅地であるビーコンヒルは、元から車の通行量が少ないのだが。
――『日本だったら、札幌とほぼ同じ気候だそうです』
いつだったか、夫となった男がそう言った。
だから歴史ある英国風屋敷のこの家も暖房に関しては最新設備で、リビングは春のように暖かい。
時報が午後三時を告げている。
そろそろ起きなければ。夫が大学から帰ってくる。
東京の大手弁護士事務所に勤めている紗綾の夫は、優秀さが認められ、アメリカはボストンにある有名な法科大学院へ留学中なのだ。
そこで法学修士号を取り、米国弁護士として活動できる資格――バー・エグザムと呼ばれる試験――に挑み、いわゆる国際弁護士という奴になるらしい。
とりあえず日本企業が多いニューヨークと、世界IT企業の拠点であるカリフォルニア。この二つでいい。――と本人は言っていたが、弁護士はどこの国でも難関職業。とてつもなく勉強するに違いない。
そんな話を聞いて、渡米直後は心配していた紗綾だが、実際のカリキュラムはそこまで厳しくないようで、夕方になると夫――壬生基樹は家に帰宅する。
逆に、最近では紗綾のほうがガリ勉気味である。
元彼の浮気現場に踏み込んだことを発端に壬生から慰められ、告白され、あれよあれよのうちに結婚し、一緒に渡米することになった紗綾だ。
当たり前だが、英語力はゼロ。
見越していた壬生が、日系米国人のメイドを通わせ、さらに富裕層向けパーソナル・コンシェルジュサービスまで手配しているので、その気になれば、一切、英語をしゃべらず暮らすことはできるのだが。
なにぶん、元が、ごく普通の会社員だった紗綾だ。
人に仕えて貰うことに慣れておらず、遠慮が先にたつあまり言い出せず、結果、渡米して四ヶ月近く経つというのに、あまり活用できてない。
他人に頼むのは気が引けるなら、自分でやるしかない。
一念発起したものの、学校で習うものと現地の英語はまるで違う。
読み書きはどうにかなるが、会話が駄目なのだ。
ボストン日本人会にいるマダムから毎週レッスンを受けているが、会話だけがなかなか上達しない。
聞けるし、理解もできるのだけれど、――自分の意思を伝えるのが苦手なのだ。
元彼の罵倒と暴言におびえ、萎縮していた年月が長いせいか、他人の反応が気になってしまう。
壬生が優しく見守ってくれるおかげで、一時期よりはまともになったが、まだまだいけないと思う。
(いや、いけないのは、ここでだらだら寝ていること。早く起きて、晩ご飯を用意しないと)
テーブルに突っ伏したまま唸っていると、ふわりと甘い匂いがした。
――濃厚で、少し苦みもあるようなこの匂いは、きっとホットチョコレートだ。
(それも、林檎のブランデーを入れた奴)
甘くて、ほろ苦くて、そして蜜を含んだ林檎の香りが口から鼻腔に抜けるのが、うっとりしてしまうほど最高においしい奴だ。
夫となった壬生基樹だけが知るレシピで、丁寧に入れられたそれは、どんな飲み物より紗綾を幸せに蕩かしてくれる。
あれはおいしい。あれは飲みたい。
うさぎのように鼻をひくつかせて夢に浸っていると、隣でくくっと喉を鳴らされた。
「わっ! 嘘っ!」
がばりと起きた途端、紗綾の隣にある椅子に腰を預けていた男が、たまらない様子で吹き出し笑う。
「おはようございます。いい夢を見られましたか?」
お気に入りのマグにたっぷりと作られたホットチョコレートを差し出しながら、夫が笑う。
相変わらずの美形ぶりだ。
日本で弁護士をしていた時は、隙のないスーツ姿が印象的だったが、院生として大学に通う今は、ヘリンボーンツイードのジャケットにデニムといった、今日のようなカジュアルな姿をしていることが多い。
そのせいか、鋭い雰囲気が和らぎ、ゆったりとくつろいだ――大人の男らしい色気が前にでていた。
毎日見ているどころか、妻として結婚までしたのに、突然、側に現れられると心臓がドキドキしてしまう。
うろたえ頬を赤くしつつ黙っている紗綾にマグを渡すと、壬生は同じトレイに乗せてきたキャニスターの蓋を開ける。
「早かったんですね」
「大雪で、教授が出先から戻れなくなり講義予定がキャンセルになったんです」
(……そうなのか)
手元に置いていたスマートフォンを見ると、確かに着信が一度ある。
気づかず眠りこけていたなんて妻として情けない。
「私、急いでご飯を作ります!」
勢いよく立ち上がるが、一歩踏み出す前に留められ、そのまま長身を屈め壬生からキスされた。
柔らかく、けれど女のそれとは違う引き締まった唇の感触にどきりとし、動きをとめれば、流れる仕草で腰に手をあてられ、額を合わせたまま低い声で壬生が囁く。
「まだ三時ですよ。……帰宅した私につきあって、一息入れませんか」
とは言うが、家事も英語の勉強もそっちのけで、今まで寝ていたのが気まずい。
妻の内心を読み取ったのか、壬生は額、こめかみと、唇で触れるだけのキスを繰り返しつつ、お願いですとホットチョコレート以上に甘い声でねだる。
そうされると、紗綾の罪悪感どころか理性までとろんと溶けてしまうとわかりきった仕草が、大人の男らしい余裕とずるさであるのだが、それを欠片もさとらせず、甘える素振りで相手を甘えさせ、掌に転がすあたりが壬生のあざとさでもあるのだが。
「それで? 今日はうさぎですか? くま?」
ガラスの瓶いっぱいに詰まる可愛い動物マシュマロを指して言われ、紗綾は赤面しつつ口を開く。
「……うさぎ」
熱々のチョコレートの上にうさぎのマシュマロを浮かべられ、バツの悪い思いで謝罪する。
「ごめんなさい、昼寝しちゃって」
「いえ。謝ることはないでしょう。……紗綾は真面目すぎますね。英語なんか勉強せずとも暮らせるのに。 ……来たばかりなんですから、急がず、もっと気楽に、海外暮らしを満喫していいんですよ」
お出かけしたいなら、いつでもボディガードを頼めるでしょう? と言われたが、その金額が問題だ。
はっきりいって、一回で日本にいた紗綾の年収を超えてしまう。そう思うと、恐れ多くて息抜きのカフェどころか、日常の買い物ですら外出をためらってしまう。
弁護士として到底まかないきれない家計状況だが、壬生には個人としての収入の他に、亡き両親から受け継いだ遺産があり、さらに、運用で着実に増やしているから心配ないのだとか。
銀行――スイスのプライベート・バンクから上がる貸借対照表を目にしたことがあるが、途中で桁を数えるのが怖くなるほどの取引額だった。
最初は、それを見ておびえる紗綾を面白がっていた壬生だが、一時間経っても本気で腰を引けさせ、おっかなびっくりで接する妻の様子に盛大に拗ね。
『そんなに紗綾さんが怖がるなら、全部どこかに寄付します』とのたまい、さっさと送金手続きをしようとしたのだから、たまらない。
あわてて抱きついて、早まるなと止めさせたが、当然それだけで終わるはずもなく、怖いと思う余地などなくなるほど、抱いて、抱いて、抱き潰された。
――なにがあろうと、どんな状況だろうと、私を見失うことは許さない。
紗綾が見いだせないのなら、壬生など存在しないのも同じだと、深く――執着に似た愛を告げられた気がするが、はっきりって、達きすぎて意識がもうろうとしていたので、本当かどうかわからない。
ただ、自分の夫は、存外独占欲が強いのかもとは思ったが。
閑話休題。
ともかく、自分に自信がないから気が引けるのだ。
夫婦だ、対等だといわれても、彼我に差がありすぎるから怖いのだ。
だったら、少しでも自分から壬生に近づけるよう、彼の隣に立てる女に成長すべきだ。
――と、思い立ったはいいが、異国のこの地では、なにをするにも語学力が必要で。
結果として、紗綾は英語を猛勉強中なのである。
「やっぱり、少しは自分でわからないと。迷子になった時とか困るのに」
「……クライアントを迷子にするボディガードというのも、なかなかに職務怠慢ですね」
紗綾がチョコレートに口をつけたのを確認してから、壬生は自分用のコーヒーを手に取り笑う。
が、目があまり笑っていない。
というか、むしろ冷徹に細められている。
「紗綾が危惧するようなことでもあったのですか?」
「ちっ、違いますよ!」
調べ上げ、即時解雇と段取りを踏みそうな夫に対し、あわてて否定する。そうではない。
「基樹さんとお出かけする時の話ですっ!」
「だったらますます、英会話の必要性を感じませんね。私が貴女の手を離すはずがない。迷子になんてさせやしません」
さらっと強烈にのろけられた。
慣れてきたとはいえ、こういう不意打ちの熱愛は本当に照れる。
「……さすがに、男子トイレとかは無理かと」
「さあ? どうでしょうね」
拗ねて反発して、でも交わされて。本気かどうかわからない分、返答に困る。
むうっと押し黙り、ホットチョコレートを口に含む。
「なにをそんなに膨れているのですか。リーディング・ツリーは結構進んでいるのでしょう」
壬生が用意してくれた英語学習用の絵本のことだ。
イギリスにある名門大学の出版局のもので、全二百八十話もある大作童話なのだが、内容は大人がでも面白く、しかも読み通すうち自然に、文法や単語の理解レベルが上がる仕組み。
初心者にもってこいだし、実際、紗綾も二百話までは、辞書の助けなく読み通せるようになった。
――が。
「発音がいまいちというか……。聞き取れるし、わかるけど、私のが通じてないっぽい……ので」
「なるほど。ここいらの隣人は、なかなかにボストン訛りが強い」
そうなのだ。
英語などどこでも同じと思っていたが結構違う。
ボストンという地名だって、実際に現地の人間に発音されると、ボストンではなくバァアストン! みたいになるのだ。
その上、紗綾の発音は日本人のカタカナ英語。
相互理解は難しく、発音記号通りにしたつもりでも、
すぐに Could you say the Again? と返される。
「イギリスの発音に近くはありますが。……ここらの住民も、英国貴族の流れを汲む方が多いそうです。ほら、うちも、周辺の家もレッドストックブリックでしょう」
赤煉瓦に蔦の緑が美しいヴィクトリアン様式の建築物――イギリス風の建物ばかりがそこらにあることを思い出しつつ目を泳がす。
「あー、紅茶事件……ですか」
ボストンの歴史を出し口にするも、そこから先が続かない。
英国の影響が強い土地だからそちらに合わせろとアドバイスされても、違いがわかるほど英語を体得できてないからだ。
うつむき舐めるようにチョコレートを口にしていると、壬生がくしゃっと紗綾の髪をかき混ぜ、それから同じ目線に身を屈めて笑う。
「考えるより舌使いで慣れたほうが早いですよ。ほら。〝車をハーバード大学に止めてきました〟?」
「えっ、私は国際運転免許はまだ……って、発音か」
〝park the car in the Harvard Yard〟だ。
RDの発音を抜かす、ボストンの訛りがわかりやすいとされる例文だ。
おずおずと発音すると、壬生が目を細め、意味ありげに口端を上げる。
「唇をもっと横に引いて。舌は丸めないで」
「ふぃ……」
手で顎と頬を包み、両方の唇の端を親指で押さえら
れ、もう一度と言われる。
「ぱーざかーざはーう゛ぁーやー」
「また舌が浮いてますよ。ほら」
先ほどより、親指の先が口の中に入っている。
男の指を舐めないようにすると、どうしても舌が内側へ丸まり、アールの発音が露骨になるのに。
(むしろ指を外して欲しい)
だけど、折角、夫が教えてくれているのにとも思う。
迷いつつ例文を繰り返すうちに、どんどんと壬生の顔が近づいてきて。
「んんっ!」
身を引くより早く、歯列を割って指が押し込まれ、壬生が目をなまめかしく細めながら耳元で囁いた。
「絶対に、舌を、動かしちゃ駄目です」
動かしたら、お仕置きですよと続け、壬生は親指で紗綾の舌を押さえたまま、唇を重ねだす。
突然始まったキスに驚き身をすくめる。
熱くぬめる舌は一瞬で口腔を埋め尽くし、含ませた己の親指もろともに紗綾の内部を舐め、味わう。
口の残るチョコレートの芳香と、男が口にしていたコーヒーのほろ苦さに舌が酔い、甘いねだり声となって鼻を抜ける。
動かすなと命じたくせに、歯列から舌根までなぞる動きは執拗な上に、愉悦に満ちた淫らさで。
――紗綾が夫から〝正しい舌の使い方〟をレクチャーされるのは、もう、避けようのない未来だった。