今すぐ君と入籍したい


 スパダリドクターとなりゆき婚約!? 甘く淫らな恋の治療の後日談 ヒーロー視点。

 ちょっとした事です。 一発書き。

 電子書籍発売に合わせようとして一ヶ月遅れましたが、書きました🌟


 
 電子カルテの表示されたパソコン画面を見ながら、白衣を脱ぐ。

 病棟へ送信した指示に対するアクションがないことを確認し、白衣を椅子に掛け、その手でマウスを操作し電源を落とそうとする。
「あれ? 和沙先生も今日は上がり?」
 隣のブースで入力作業をしていた同僚の脳神経外科医が、椅子の背もたれに寄りかかりながら尋ねてくる。
「とくに問題はない筈だが」
 パソコンを落とす手を止め尋ねる。
「問題はないけど、最近、早いなあと」
「そうでもないだろう。昨日もおとといも泊まったぞ」
 十一月末という季節柄、どうしても脳卒中――脳神経外科関連の入院や手術が増える。
 手術をすると経過が気になり泊まりこみ、もう、二日も家に戻れていない。
 今更、言うまでもない説明に肩をすくめると、三つ年上の同僚医師が笑う。
「去年と比べたら全然帰ってるよ。去年の一月なんか、和沙先生は若院長室に住んでるって有名だったもん」
 事実、去年のクリスマスから正月は、家庭持ちの医師に休みを譲ったため、ほとんど無休状態だった。
 病院を離れたのは三が日の午前中ぐらいで、それすらも、久我家の親族顔合わせに付き合わされただけで、楽しいとかくつろぐなどとは無縁だった。
 仕事柄、久我は自宅へ帰れないことも多い。
 それは、同棲している恋人との時間が少ないのとイコールである。
(理解はしてくれているが)
 元医療秘書だった恋人は、医師の仕事の不規則さも知っており、急に泊まりになっても、二日ほど帰れなくても、不満そうな様子を見せない。が。
(……俺の方が、我慢できそうにない)
 様々な事情が重なり、恋人――高野優衣は、久我の家に同棲している。
 彼女を庇護し、余計なことをする邪魔者らが手出しできないように、囲い込みたい。そんな気持ちから始めた同棲で、久我自身のライフスタイルが変わるとは思わなかった。
 初日に、恥ずかしそうにした優衣から、おかえりなさいと迎えられるまでは。
 ――そして気づく、一緒に暮らす事の意味を。
 いつでも助けられる位置に居ることが許されて、手を伸ばせば触れられる。
 ごく普通の恋人同士であれば、とくに意識することでもないかもしれない。
 だが、四年もの間焦がれ続け、けれど手を伸ばせず、やっと手を伸ばすことができるチャンスが訪れた時には、到底、恋愛対象にはなれない立ち位置だった久我には、とてつもなく大きな感動だ。
 なのに、仕事で二日も家を空けてしまった。
 完全に恋人不足だ。家に早く帰りたくて仕方ない。明日が休みならなおのこと。
 デスクを片付けていると、同僚が肩をすくめた。
「彼女ができたでしょ」
 あっけらかんとした指摘に苦笑する。そんなに露骨に行動パターンが変わっていたか。
「ああ。一緒に暮らしている」
「うわー、直球。ごまかしもしないんだ。……だと思った。プライベートの時間を増やそうと努力しているもんね。なんか最近は、仕事の効率化を極めてるし。うちのナースたちが知ったらうるさいよ。とくにほら、しつこいの居るじゃん。差し入れとか、用もないのに当直室前をうろうろしてアピールしてくるの」
 次代の院長夫人という座を狙い、和沙が当直の度に食事やなにやと誘ったり、弁当を差し入れたりする女がいたのだ。
 もちろん全部、断っていた。欲が見え透いている女に手を出す気はないからだ。
「ギャーギャー騒ぐよ?」
「知ったことではないな。それと、彼女じゃなくて婚約者だ。双方の親に挨拶しているからな」
「は? 院長にも? いつの間に。君ら親子、顔にも行動にも出さな過ぎ」
「挙式は三月予定。決まったら誘うから空けておけよ」
「そこまで用意周到か。……惚れてるんだねー。いいなあ、俺も帰って奥さんとイチャイチャしよう」
 デスクへ向き直り、机を片付けだす同僚をからかう。
「奥さんの前に娘だろう」
「娘ちゃんも交えて、親子三人でイチャイチャするんだよ」
 笑い、雑談を締めくくろうとしたその時、けたたましい音を立てて医局の電話が鳴り響く。
 ちらりと目をやると、救外と記された内線ランプが赤く点滅している。
 すぐ受話器を取った同僚の方から、意識障害、JCS100、SHA疑い、という単語が聞こえ、溜息を吐くと、同僚が片手で謝ってきた。
 ――どうやら、今夜も緊急手術に駆り出されそうだ。

 救急外来から依頼を受けた、SHA――くも膜下出血の緊急手術は、四時間を経て終了した。
 本来なら、当直医が執刀すべきものだが、あいにく、今日の担当はすでに別の緊急手術に入っていた。
 それならそれで、執刀者が捕まらないと断るべきだが、救急に勤務している研修医がそれを知らず、脳神経外科医が二人も残っているのだから、手術可能と判断し、こちらへの連絡なしに救急車を受け入れてしまったのだ。
 となればもう断れない。
 結果、久我と同僚がやるしかなくなり、この時間である。
 消灯時間を過ぎているためか、手術フロアはしんとしていた。
 執刀した同僚は、家族の説明へ回っており、助手だった久我は、一足先に手術室を後にする。
 これから急いでも、家に着くのは夜中だ。
 白衣のポケットからスマートフォンを取り出すが、着信はない。
 緊急手術に入る前に、遅くなると連絡していたからだろう。
 それが少し寂しい。
(わがままで贅沢だな。自分が思う分だけ、相手に思って欲しいだなんて)
 大丈夫ですよ。お仕事ですから。がんばってくださいね。と明るく口にする優衣のけなげさを好もしく思う一方で、会いたいのも焦がれているのも、自分だけかと焦れてしまう。
 久我を邪魔しないようにと気遣っているとわかるが、たまには、優衣からも、寂しいと言って欲しいし、側に居たいと甘えて欲しい。
(今日は、電話を切る前に、なにか言いたそうだったな……)
 用意済みの晩ご飯は、家に帰った時に食べると伝え、メニューを聞いていた時、患者が手術室に入ったと女性看護師からせっつかれた。
 声が聞きたくて、起きていることを願い電話するも、繋がらない。
 ぎくりとして、医局前の廊下で立ち止まった瞬間だった。
「だからぁ、そういうの、うちの科、お断りしているんですよね」
 キツイ女の声が、医局の先にある手術部次長室の前から聞こえる。
 手術部次長室となっているが、事実上、和沙の個人部屋である。
 久我は、この病院の次代を担う者として、人々に注目され続けている。
 利用価値があると、業者や女性に追い回されることもある。
 ずっと医局にいては面倒も多かろうと、名目だけの役職を当て、執務室を避難場所として用意されている小部屋だ。
 そこから聞こえるということは、自分絡みのもめ事に違いない。
 顔をしかめながら、歩みを早めた時。
「ですが、こちらで待てと言う風に、説明されましたので」
 柔らかく、だが芯の通った声に驚く。
 急ぎ角を曲がれば、二人の女が睨み合っていた。
 一人は、和沙を狙って、しつこく追い回す看護師の女。
 もう一人は。
(優衣? どうして)
 声を上げようとした時だった。
 優衣を詰問していた女性看護師が、いらだちもあらわに吐き捨てた。
「だから、そういう差し入れとか、お断りなんです。和沙先生のお世話は、私たちがちゃんとしますから! 大体、アンタ、どこの科の誰よ。わかんない? アンタの出る幕じゃないんですけど!」
 一瞬で状況を理解する。
 優衣を見かけ、久我を狙う病院関係者か、あるいは恋人と察した看護師が、二人を誤解させ、別れさせようとしているのだ。
 冗談じゃない。顔をしかめ一歩踏み出した時だ。
「妻ですけど」
 凜と響いた優衣の声に目をみはる。
 それは女性看護師も同じようで、はぁ? と素っ頓狂な声を上げていた。
 奇妙な沈黙が流れ、次の瞬間、攻守が逆転した優衣が言い返す。
「久我和沙の妻です。主人がいつもお世話になっております」
 きっぱり言い放ち、有無を言さず頭を下げる。
 と、ポカンとしていた女性看護師が、見る見る顔を赤くした。
「なに言って……! そんな話は聞いてな」
 込み上げる笑いを堪えながら、二人の間に割って入る。
「優衣」
「か……、和沙、さん」
 久我に聞かれているとは思わなかったのだろう。優衣が顔を上気させ、目を泳がす。
 構わず肩を抱き、身悶えする様を愛でながら、その額に口づけを落とす。
 途端、口汚く優衣をなじっていた女が青ざめる。
「君。妻がなにか?」
「っ、……いえ、そん、いえっ……、ご結婚、されて、いたん、で」
 恋人かなにか。追い払えばまだ自分にチャンスがある。
 そう考え、愚かな威嚇を繰り返していた女をにらみつける。
 たとえ一瞬でも、自分と優衣の間を裂こうとした相手に容赦はいらない。
「婚姻相手以外を、妻と呼ぶ理由はないと思うが。……それで? 俺の妻がなにか問題でも起こしたのか? 厳しい言い方をしていたようだが」
「いえっ……。その、私の、誤解でした。失礼します」
 これ以上絡めば、和沙の不興を買うと察したのか、女性看護師は驚くほどの素早さで身を翻す。
 相手が姿を消してしまった瞬間、部屋のドアを開き、優衣を引っ張り込む。
「それで? どういうことなんだ」
 入るなりドアに両手を突き、間に優衣を閉じ込め、逃げられないようにしてから問い詰める。すると、彼女は目を反らしつつ説明する。
「緊急手術だって言っていたから、もし執刀だったら、今日も帰ってこられないだろうなと思って……。それで……夜食にでもなればって、思って。……食べないのは、身体に悪いし、少しでも、私が、なにか……できればとか、感じて貰えればとか」
 うつむき、耳まで赤くしたまま、優衣は手にしていたトートバッグを差し出す。
 だが、聞きたいのはそこじゃない。
 和沙は、緩みがちになる唇をそのままに、相手の耳元へ顔を寄せる。
「…………主人がいつも、お世話になっています?」
 気持ちいいほど豪快だった、優衣の啖呵を繰り返す。
「それは勢いでと言うか。……あの人、自分が和沙さんの恋人みたいな顔して、口ぶりで、私に皮肉をぶつけてきて、それで、私ってなんだろうなって、それで、ええと、それで」
 身悶えし、ぶるぶると震えだす恋人を両腕に抱き締め頬ずりする。
「それで、主人がいつも、お世話になっています、か。主人。主人……」
 にやっと口を歪め笑う。
 浮かれてしまう。ただ、主人と、夫と認識している言葉を聞いただけなのに。
「いつ入籍したんだろうな。優衣」
「ごめんなさいッ……! でも、最近、和沙さん、家より病院にいる時間が長いし。仕事だから仕方がないですし。わかってますけど、でも、モテるだろうし、ああいう人一杯いるんだろうなって、思ったら、つい……!」
 混乱と羞恥で一杯一杯なのか、目を潤ませ見上げる恋人の頭を、ぽんぽんと何度も手で叩きにやけてしまう。
「つい牽制したか。……可愛い嫉妬をしてくれる」
「ひゃっ!」
 顔と言わず、首筋と言わず、見える肌全部に口づける。
 同時に、抱く腕を動かし、撫で回す。
 優衣が可愛くて可愛くて仕方がない。
 恋人です、とか、婚約者です。を飛び越え、妻ですと、大胆に牽制してしまうの優衣が愛おしい。
(そう言えば、俺と付き合うことになったのも、優衣の大胆な失言だった)
 ――お金でなく、婚約者を下さい。と。
 出会いの切っ掛けを思い出し、笑う。
 自分だけが好き過ぎるのではないかとか、寂しいと思って貰えないとか、そんな悩みは粉々に砕け散っていた。
 ひとしきり可愛がって、気が落ち着いた久我が腕の力を緩めると、優衣が気まずそうに目を反らす。
「迷惑をかけましたよね……。いきなり差し入れをもって来て」
「迷惑じゃないだろう。他の同僚でもいるぞ。奥さんに差し入れ持ってきて貰っている奴」
「っ、でも、私……まだ」
「主人がいつも、お世話になっています」
 結婚してないと言いたげな相手の先を読み、にっこり笑って繰り返す。
「……わかっていましたけれど、和沙さん、けっこうイジワルですよね」
 照れから膨れ、拗ねられても、可愛いだけだ。
「どちらがだか。優衣が思うよりずっと、俺は優衣に焦らされているんだがな」
 顎を持ち上げ、額を合わせる。
「今すぐ、妻にしてしまいたい」
 真剣な声で伝えると、優衣の細くて白い喉がこくりと鳴った。
「朝までは我慢できるが、明日までは我慢できそうにない」
 無理を承知で入籍をねだる。すると、彼女は久我の腕の中で爪先立ちし、触れるだけの口づけを残し、はにかみ告げた。
 いいですよ。私も同じ気持ちですから――と。